白虎隊と会津若松市
2005年10月10日(月)
会津若松市
 ホテル「東鳳」の窓から写した会津若松市の朝の風景です。写真では確認できないのですが、左端に鶴ヶ城があります。  デジタル36倍ズームで写した観音様です。少しぼやけているのが神秘的に見えます。後から傍を通ったのですが、この写真の方が印象が良いですね。
飯盛山
 会津若松市の東の郊外に市街地を一望に見渡す小高い丘「飯盛山」に、若干16・17歳で自決した白虎隊のお墓があり、墓所とは思えないほどの大勢の観光客が集まっていた。白虎隊とは1868年江戸幕府と新政府軍との闘い「戊辰戦争」の際結成された、隊員年齢15〜17歳の若い江戸幕府の親衛隊でした。戦況は日に日に悪化し、城近くの飯盛山中腹にある厳島神社までのがれ、そこで見た鶴ヶ城は黒い煙と、天守閣には赤い炎が燃え盛っているように見えた。もやはこれまでと感じた20名の少年は、ここ飯盛山で自決をしました。ここにあるお墓は、蘇生した1名を除く19名のお墓が並んでいました。
 白虎隊19名にお線香をあげる参拝者です。  飯盛山で自決した19名の白虎隊のお墓の右横に、共に白虎隊として闘い戦死した31名の少年達のお墓が整然と並んでいた。
 飯盛山の登り口です。左右にお土産屋さんが並んでいました  この参道の階段が見た目以上に意外と登るのがきつかったです。登り口右側にベルトコンベア式のエスカレーターが250円の有料で利用できたのだが、同行の70歳ほどの先輩が歩いて登ると言い出したので、仕方なく歩いて登りましたが息切れしました。運動不足ですね。
 戊辰戦争で自刃又は戦死した200名余名の婦女子達の霊を弔うために、昭和3年藩士山川健次郎氏(帝大総長)等の篤志家によって建立された「会津藩殉難烈婦碑」です。  広場に建立されていた立派な碑は、白虎隊をたたえて昭和3年ローマ市民からから贈られた記念碑で円柱はポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱です。この他にもドイツ大使館武官から贈られた記念碑もありました。
 広場にあった灯篭です。形が面白い。  白虎隊のお墓前に建立されていた灯篭です。
 広場において白虎隊の踊りがご覧頂けます。広場に一番近いお土産屋に訪れる団体客の要望で踊ってくれるそうです。
 広場に建立されていた狛犬です。
鶴ケ城
 会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」である。1591年(天正19年)蒲生氏郷によって7層の天守閣が造られ、名前も鶴ヶ城と改められた。1611年の大地震により傾きその後天守閣を5層に改め現在の形となった。天守閣は戊辰の役で砲撃されその1874年に取り壊されたが、昭和40年に郷土博物館として再建され国の史跡に指定されているそうです。
 城内に入る入り口です。石の階段と城壁の石がその歴史を感じさせます。  昭和22年に建立された「荒城の月碑」です。土井晩翠氏の直筆による荒城の月1番〜4番までの歌詞が記されていた
武家屋敷
 城の庭にある石で出来た井戸だと思うのですが?確認していません。  ジャンボタクシーでホテルを出発すると、まもなく会津武家屋敷に到着した。會津藩校日新館と共に歴史と観光の街を、アピールするために復元された野外歴史博物館だそうです。
 家老屋敷を訪れた藩主松平容保公に、屋敷の主人屋敷の主人西郷頼母近悳が挨拶している場面を蝋人形にて再現。大河ドラマ「新選組」のロケは、この部屋で行われました。  1868年、西軍が会津城に総攻撃を開始した際、足手まといになると考えた西郷家の婦女子はこの部屋で自刃しました。死きれない一人が、西軍の武士に「お前は敵か味方か」と尋ね、事情を察したその武士は「味方だ」と言って介錯をする場面です。
 巨大水車により搗き臼(つきうす)に角材が自動的に上下する精米の実演が行われていました。1813年頃に造られ移設復元されたもので、1日に16表の米を精米していたようです。  武家屋敷土台の間知積みです。コーナーの石の納め方が参考になります。
 頼母を父に持つ西郷四郎(姿三四郎のモデル)は、非凡な運動神経の持ち主で、投げられても地につくまでに身をひるがえす柔軟さの故に「猫」呼ばれ、また特技山嵐は彼独特のもので、その後は禁じ手となりました。これは西郷四郎のモニュメントです。  昔の一般家庭で広く使われていた石の据え風呂です。浴槽内部を通る煙突の熱を利用し、湯を沸かしていたそうです。
 これは石のかまどです。  これも展示されていた石のかまどです。
 庭園に設置されていた「つくばい」です。つくばい(蹲)とは、もともと茶道の習わしによりお客様が這いつくばるように、身を低くして手を清めたことが始まりです。現在は、演出として用いられることも多い。  石で作られた「撫で蛙」と称されるもので、一路平安無事かえるを祈願して設置されているそうで、頭の部分が大勢の人に撫でられたようで黒光りをしていました。見事な造りでした。
 縄文式時代から弥生式時代にかけて、使用された道具や食料などが展示されていました。  庭に設置されていた石で出来た鑑真像です。中国の名僧・鑑真は、日本からの招きで(753年)来日。当時の航海は容易ではなく、12年間5度の失敗を乗り越えようやく日本にたどり着いた。
 この鑑真像は中国彫刻界の第一人者の作で、中国との関係が深い当館館長が、日中国交正常化10周年を記念して安置したものです。変成岩です。  この石張りは面白かったので写真に収めました。自然石の玉石を上手に積み上げ(貼り付け)てあり、何とも言えない味わいがあります。記念館の出口にて。
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